1703年の元禄地震は、東京にとって関東大震災を引き起こした1923年関東地震と大変よく似た地震であったはずである。にもかかわらず被害の程度は相当違っているようだ。関東地震では当時の東京市で大火災が発生し約69,000人もの死者が出たのに対し、元禄地震では直接地震によるとみられる火災はなく、総数はつかめないまでもそんなに多くの死者が出たとは思われない。幕府も江戸市民のための救済令を出した形跡はないという。当時の江戸の人口はすでに大正期の1/3にも達していたとの推定もあるが、隅田川東岸の本所、深川の低湿地にはそれほど人は住んでいなかった。そこで関東大震災の被害から本所区と深川区の被害を除いてみる。すると死者は約10,000人になる。さらに火災によるとみられる死者を引き去ると総数は1,500人と激減し、元禄地震でそれほど大きな被害が出なくとも不思議ではないように思える。このことは一体何を意味しているのか。土木技術の進歩で低湿地にも人々が住めるようになったことが、返って関東大震災の大きな被害を生んでしまったということだろうか。科学技術の進歩に身を任せるだけでは、こと地震に関しては、返って大きな不幸がもたらされることもあるという歴史の教訓かもしれない。
過去40年間にわたり歴史地震調査を引っ張ってきた宇佐美龍夫は自著『日本被害地震総覧』の中で「地震の理学的側面を普及することが最重要なのではなく、蓄積した事実のうちから、災害の軽減に直接あるいは間接に結びつく事柄を、平易に、しかも正確に普及することがわれわれ専門家の担うべき重要な任務と考えられる。」と述べている。歴史地震調査は100年以上も続く地道な作業である。過去の地震の実相・実態を明らかにして平時からの心構えに役立つようにこれからも地道に続けていかなければならない。同時にこのような地道な活動こそが地震防災のベースであることを関係者にはぜひ理解してほしいと感じる。“のど元過ぎれば・・・”の繰り返しでは防災の実効性は上がらない。このこと自体、歴史地震が物語る災害教訓であろう。
(広報誌「地震本部ニュース」平成24年(2012年)11月号)