平成23年3月11日、私は霞が関の合同庁舎5号館3階にある内閣府(防災担当)で東日本大震災に遭いました。内閣府の職員の方に対するヒアリング調査をしている最中のことでした。そのうちに収まるだろうという皆の期待とは裏腹に、揺れはその大きさを増すばかりで、生まれて初めて「あ、死ぬかもしれない」と思いました。揺れが収まると即座に内閣府の担当者は防災服に着替え、その足で官邸の危機管理センターに向け飛び出して行きました。部屋の中には各放送局のテレビ映像が映し出されており、車や家や船が次々と津波に飲み込まれていく状況を、その場にいた人たちと共に、声もなく呆然と見つめていました。
地震発生から3日目、宮城県と岩手県の津波被災地に入り、カメラのレンズを通さずに現実の被害を見たときに、全く声が出ない、全く言葉が出ない状況でした。あまりにも広すぎる被災地、あまりにも惨すぎる被害、そして自分があまりにも無力であること、さまざまな思いが交錯し、防災の仕事に携わる人間として、何をしたらよいのか、なにができるのか、出口が見つからない日が続きました。しかし、「普段できないことは、災害時にもできない」という防災の鉄則どおり、これまでやってきた事から取り組むことに決めました。
それは、被災者に対する罹災証明書発行業務を支援する活動です。災害時によく耳にする“被災者生活再建支援金”を受給する際などに必要となる公的な証明書の発行と、その前提となる住宅の被害調査を、大学の教員や学会の研究者と共に支援しています。
1棟1棟の住宅を調査する中で、いつまでも収束しない余震を気にしながら、ガレキの片付けや思い出の品を運び出す多くの被災者の方たちと出会いました。その中で、3月11日の地震では大丈夫だったのに、4月7日の地震で住宅に大きな被害を受けた人が予想以上に多いのに驚きました。中には、4月7日の地震で住宅が倒壊し、もし避難していなかったら命が危なかったという方もいらっしゃいました。巨大地震が発生した際に、その後起こる余震や、連動して起こる地震に関する予測の重要性を、改めて認識することとなりました。科学的に見て非常に難しい課題と認識していますが、東日本大震災後に起こったこれらの地震に関する情報を収集し、分析し、余震や連動して起こる地震の予測技術を高めていただくことを、心から期待する次第です。
地震発生から3日目、宮城県と岩手県の津波被災地に入り、カメラのレンズを通さずに現実の被害を見たときに、全く声が出ない、全く言葉が出ない状況でした。あまりにも広すぎる被災地、あまりにも惨すぎる被害、そして自分があまりにも無力であること、さまざまな思いが交錯し、防災の仕事に携わる人間として、何をしたらよいのか、なにができるのか、出口が見つからない日が続きました。しかし、「普段できないことは、災害時にもできない」という防災の鉄則どおり、これまでやってきた事から取り組むことに決めました。
それは、被災者に対する罹災証明書発行業務を支援する活動です。災害時によく耳にする“被災者生活再建支援金”を受給する際などに必要となる公的な証明書の発行と、その前提となる住宅の被害調査を、大学の教員や学会の研究者と共に支援しています。
1棟1棟の住宅を調査する中で、いつまでも収束しない余震を気にしながら、ガレキの片付けや思い出の品を運び出す多くの被災者の方たちと出会いました。その中で、3月11日の地震では大丈夫だったのに、4月7日の地震で住宅に大きな被害を受けた人が予想以上に多いのに驚きました。中には、4月7日の地震で住宅が倒壊し、もし避難していなかったら命が危なかったという方もいらっしゃいました。巨大地震が発生した際に、その後起こる余震や、連動して起こる地震に関する予測の重要性を、改めて認識することとなりました。科学的に見て非常に難しい課題と認識していますが、東日本大震災後に起こったこれらの地震に関する情報を収集し、分析し、余震や連動して起こる地震の予測技術を高めていただくことを、心から期待する次第です。
(広報誌「地震本部ニュース」平成23年(2011年)5月号)